1962年、24歳のフィル・ナイトは父の資金援助を得てオレゴン州から世界を巡る旅に出発した。自分の人生を人とは違う特別なものにしたいと強く願った青年の最大の目的地は日本だった。
スタンフォード大学院生だった2年前、ナイトはドイツの独壇場だったカメラ市場に日本企業が参入し、成功し始めていることに着目した。陸上選手でもあったナイトは、日本のランニングシューズにも同様の将来性があるのではないかと感じ、その輸入ビジネスの可能性についてレポートにまとめていた。日本への旅はその可能性を自らの手で実現するための第一歩だった。
旅の計画を聞いたナイトの祖母は猛反対した。世界を征服しようとした野蛮で残忍な日本人の国へ行くなどとんでもない。捕えられて収容所に送られ、目をくり抜かれるに違いないと。終戦からまだ17年、人々の心に戦争の影がまだ色濃く残っていた。ナイト自身も初めて飛行機に乗った5歳のとき、父に尋ねた記憶があった。
「パパ、日本のゼロ戦に撃ち落とされないかな」
ハワイを経て羽田に降り立ったナイトは、列車で西へと向かった。車内のあまりの汚さに驚きながらも神戸に到着し、オニツカという会社を訪問した。居並ぶ幹部社員を前に、ナイトは オニツカ製のシューズの輸入販売をさせて欲しいと申し出た。
「ミスター・ナイト、あなたは何という会社にお勤めですか」
こう聞かれたナイトは答えた。
「私はオレゴン州ポートランドのブルーリボン・スポーツの代表です」
自宅の部屋に飾っていた陸上競技のトロフィーに付けられていた青いリボンから咄嗟に思いついた名前だった。帰国したナイトは、実際にブルーリボン・スポーツという名前で会社を設立し、オニツカのランニングシューズをアメリカで販売し始めた。
海外メーカーの販売代理店という立場は非常に不安定で微妙なものだ。ブルーリボンは地道な努力で売り上げを伸ばしていったにも関わらず、オニツカとの関係は必ずしも良好ではなかった。ナイトのことを個人的にあまり評価していなかったと思われるキタミが昇進し、オニツカ内で力を持つようになってからは、さらに関係が悪化していった。キタミはブルーリボンの売上に対する不満を隠さなかった。
やがて、オニツカがブルーリボンと手を切り、他の会社に乗り換える検討をしているらしいとの情報が舞い込んだ。ナイトは狼狽した。キタミが訪米し、オフィスを訪問した際には、隙を見て彼のカバンをあさり、書類を盗むという挙に出たほどだった。ブルーリボン社訪問後にどの会社を訪れることになっているのか、情報を探ろうとしたのだ。
その後、懸念していた通り、オニツカはナイトに取引終了を通告してきた。のみならず、契約違反で訴訟を起こすとまで言ってきた。ナイト以下、ブルーリボン社の社員は絶望的な事態に打ちひしがれた。だがナイトはすぐさま自分を鼓舞し、30人の社員の前で宣言する。これは危機ではなく解放であり、我々の独立記念日であると。これからは誰かのために働くのではない。自分達のブランドで勝負するのだ。 そのブランドの名は「ナイキ」だった。
その後ナイキは世界最大のスポーツ用品ブランドとなる。現在、ナイキの売り上げは「アシックス」と名前を変えたオニツカの8倍以上だ。
『SHOE DOG 靴にすべてを。』はナイキの創業者フィル・ナイトが70歳代後半になってから人生を振り返り、書き起こした自伝だ。
1962年に日本を訪問したナイトがナイキ会長職を辞したのは2016年のことだった。ナイトの職業人生は54年の長きに渡る。そのうちオニツカの代理店の地位にあったのは最初の10年のみだ。にもかかわらず、500ページあまりの本書の半分以上が、オニツカ(現アシックス)の代理店時代のことで占められている。
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ナイキの創業者に自分をなぞらえるのはどうかと思うが、私が最初に手掛けた事業も、ナイトと同じように海外のある会社から商品を輸入して販売するというものだった。だから、代理店時代にナイトが心に抱いた苦悩と不安がどのようなものであったかは容易に想像できる。
販売代理店は、自社のパフォーマンスの素晴らしさを輸入先の会社に納得させ続けなければならない。さもなくば、いつ商品の供給を止められてビジネスが終わってしまうかわからない。なぜなら彼らは常に考えいてるはずだからだ。日本で自分たちの商品をもっと沢山売ってくれる会社が他にあるかもしれないと。
創業から売上は順調に伸びていった。だが、それ故にどこかの大きな企業が商品に目をつけ、輸入先に販売権の取得交渉を試みるかもしれない。もしかしたら、もう既にそうした交渉が始まっているかもしれない。あるいは明日にでも取引終了の通告が送られてきて、今まで築いてきたものが無に帰す絶望的な事態になるかもしれない。来る日も来る日も心のどこかでこうした心配をしていたので、いくら売上が伸びていても内心は苦しかった。
ナイトと同じように、商品の品質問題にも度々悩まされた。だが、こちら側の立場は常に弱く、問題解決を試みても、徒労感を伴うコニュニケーションの中で神経をすり減らすことが多かった。
こうした不安定な立場を解消し、ビジネスを長期に渡って継続できるものとするため、輸入先との関係をより強固にする契約の締結をもちかけた。だが、交渉はうまくいかなかった。そればかりか、交渉の過程で嘘や不誠実を見せつけられ、果たしてこの会社と長年付き合っていこうとうする自分の考えが正しいのか疑問が芽生え始めた。そして、一つの考えにたどりついた。他人の商品に依存していてはだめだ。例えどんなに難しくても、自分の手で市場に受け入れられる商品を生み出し、それによって勝負する以外に生き残っていく道はない。ナイトのように宣言を聞かせる30人の社員はいなかったが、心の中で固く決意した。
起業して以来、ずっと心の中で繰り返し自身に問うてきた問いがある。
成功する者と失敗する者、両者を分つものは何なのだろうか。答えは単純ではない。それは複数の要素から成り立っている。だが中でも最も重要なものは、自分は何としても成功したい、あるいは成功しなければらないという信念だ。それがなければ短期的にはうまくいっても、長く成功し続けることはできない。これは根拠なき精神論ではなく自然界における普遍の法則だ。故に起業家は絶えず自分に問い続けなければならない。自分が事業をやる理由とは一体何なのかと。
フィル・ナイトの場合それは何であったのか。『SHOE DOG 靴にすべてを。』には、全編を通じてそれが写し出されている。それは本書で描かれた物語の根底を貫くものであり、それこそがナイトの人生そのものなのだろう。