1992年1月7日、当時のアメリカ大統領、ジョージ・H・W・ブッシュが来日した。大阪空港に降り立ったブッシュはその日のうちに、奈良県樫原市に立ち寄った。ひと月前に日本進出を果たしていた"トイザらス"の第2号店開店記念セレモニーに出席するためだった。何故わざわざアメリカの大統領が、おもちゃ屋の地方店の開店記念セレモニーに出席したのか。それには象徴的な意味があった。
80年代以降、日米間では貿易摩擦が深刻な国際問題となっていた。アメリカは日本の「非関税障壁」がアメリカの対日貿易赤字を生み出している大きな原因だとして非難を強め、各種規制の撤廃を求めていた。そのうちの一つが、大型店舗の出店を規制する大規模店舗小売法(大店法)だった。
大店法は、一定面積以上の店舗が新規出店する際に、事前に審査(出店調整)を行う仕組みを定めており、その際に地元の商工会などを通じて、既存小売店の意見を聴くことになっていた。当然ながら、街の小売店主らは既得権を守るために出店に強硬に反対するのが通常で、調整に多大な年月を要したり、店舗面積や営業時間に厳しい制限がつけられることが多かった。今からは想像し難いが、スーパーマーケットやドラッグストアはそう簡単に新店舗を作ることができなかったのだ。
この規制により自国企業の進出が阻まれているとして、アメリカ政府は日本に規制緩和を強く迫っていた。1985年のプラザ合意以降円高が進んだものの、対日貿易赤字は一向に減らず、原因を日本市場の閉鎖性に求める見方が多かった。日米間での協議の結果、1990年に大店法の大幅規制緩和を行うことが決まり、その翌年に"トイザらス"は念願の日本進出を果たしたのだった。ブッシュ大統領にとってみれば、開店セレモニーへの出席は自国の有権者に対して自身の功績をアピールする絶好の機会だった。
大店法によって大型店舗の出店が厳しく規制されていた時代、大した経営努力をしていない店舗でも、それなりに経営を成り立たせることができた。商店街に店を構えてさえいれば、店主が奥に座ってただテレビを見ていても、子供達はおもちゃを買いに来てくれた。近隣に他の選択肢が十分与えられていないのだから当然だ。今の水準から考えると、消費者は相当な不便を強いられ、乏しい品ぞろえの中から高い値段で商品を買わされていたことになるのだが、そのことを自覚していた人は少なかっただろう。
大店法の規制緩和によって1990年代以降に大型店舗の出店を増やしていったのは、もちろん"トイザらス"だけではなかった。大手スーパーマーケット、ドラッグストア、大型電器量販店も続々と店舗数を拡大していった。こうして、既得権の上にあぐらをかいていた小売店の多くが苦境に立たされ始める。商店街のシャッター通り化が進み始めたのもこのころであった。
バブル崩壊後の長引く不況も相まって、急速に追い詰められ始めた小売店主達にこの時一つの福音がもたらされる。インターネットの登場である。窮地に立たされた小売店主達の中からネット通販に何とか活路を見出そうとするものが現れ始めた。
今では、レンタルショッピングカートを始め、ネットショップを運営するために必要なツールは安価で豊富に提供されている。ネットの草創期にはそうしたものは一切無く、全てを自ら作っていく他なかった。小売店主達はHTMLやプログラミングを一から学んでECサイトを構築していった。日本におけるEC事業の萌芽を担った人達の多くは、苦境に立たされ始めていた街の商店主達だった。
その後、周知の通りインターネットは長足の発展を始める。常時接続、光回線の時代が始まり、ネット人口が拡大すると共に、ECの市場規模も急速に拡大を始める。消費者がネット通販の便利さ、利点を認識するのは瞬く間であった。一方で、ノウハウもツールもない時代、ECサイトを作り、受注や商品発送の体制を構築するのには時間がかかった。急速に伸びる需要に対して、供給側の体制は追いつかず、EC市場では需給の大きなギャップが生まれ始める。この時期までにネットショップを開店していた事業者の多くは、需給の急勾配を追い風に売上を伸ばしていった。
当時はネットショップ運営者が集まって、情報やノウハウを共有し合う勉強会のようなものが全国で頻繁に開催されていた。勉強会の後に必ず開かれていた懇親会のユーフォリアに満ちた独特の雰囲気を今もよく覚えている。多くの店主がアルコールで顔を上気させながら、売上がどれほど急速に伸びているか、自分の打った販促策がいかに凄い成果を上げているかを笑い声と共に語り合っていた。中には「自分がメールマガジンを書いたら、商品なんて簡単に売れてしまう」と豪語する者や、ライバル店舗を名指しして「あんな店、俺が本気になったらいつでも潰せる」と大口をたたく者までいた。
だが、この状況が一時的な需給ギャップの上に成り立っていることはどう見ても明らかだった。これはバブルに過ぎず、いつの日かこの需給関係は逆転するだろう。その時に何が起こるのか。それはいつ起こるのか。自分はそう考えると不安しか感じられなかった。懇親会の席では、いつも部屋の隅から醒めた目でユーフォリアに浮かれる他の店主たちを眺めていた。
2000年代半ばになると、アマゾンを始めとする大手資本が徐々に存在感を増し、EC市場を侵食し始めた。恐らく2008年ごろが潮目だったのではないかと思う。大成功を収めたカリスマ店長として業界でもてはやされていた人達の中からは、コンサルタントやセミナー講師として自身を売り出そうとする者が目立ち始めた。自店の売り上げに明らかな陰りが見え始め、他の道を模索し始めたのだろう。2008年5月には楽天市場のジャンル大賞受賞歴を持つインテリア・寝具の有名店が突然倒産して衝撃が走った。2010年頃からは、他の有名ショップの中からも閉鎖や撤退に追い込まれるところが徐々に出始め、90年代のネット通販草創期に成功を名を馳せていた有名店舗のいくつかも、気が付くと静かにネット上から消え去っていた。当初「福音」であったインターネットは、市場に効率化を迫るその性質によってわずか十数年で「刃」に姿を変えて、商店主たちに襲いかかっていたのだ。
市場は常にダイナミックに変化し、受給関係は流動的に動いていく。渦中にある事業者は往々にして、その流れを俯瞰的に捉えることが出来ず、自らの成功を自らの能力故のものであると過信してしまう。この現象は金融市場を含めてあらゆる市場で普遍的に観察されるものだ。
草創期にネット通販の萌芽を担った商店主らが有能な人達であったことは間違いない。インターネットが我々に何をもたらすのか誰にも分からなかった時代、彼らは先見の明をもってネットの世界を切り開いた。起死回生を遂げたのみならず、実店舗だけでは考えられなかった大きな売上を上げるまでになった人達だ。であるが故に、彼らがユーフォリアの中で全能感を抱き、置かれている状況を客観的に見られなくなってしまったのも無理のないことだったのかも知れない。
他方で、街の小売店から出発したネットショップの全てが消え去ったわけではない。市場の変化を早い段階から見通し、万難を排して準備進めて今も生き残っている事業者も少なからず存在する。
消え去った者と生き残った者。今振り返って両者を比較すれば、あの時何を成すべきだったのかは明らかだ。街の小売店事業の延長でメーカーや問屋から仕入れた商品をネットで販売しているだけでは、いかにネットマーケティングに長けていたとしても、アマゾンのような会社と戦えるわけはない。だが、渦中にこのことに気付けた人は多くは無かった。
こんな過去のことを思い出して書いたのは、"トイザらス"がアメリカの全店舗を閉鎖するというニュースが流れてきたからだ。大店法の緩和とともに日本に進出し、非効率な日本のおもちゃ店を駆逐していった"トイザらス"も、今度はアマゾン等のネット通販に駆逐されようとしている。
資本主義の自由市場はとても残酷に出来ている。市場を厳然と効率化していくインターネットは、消費者の利便性を向上させると同時に、市場の残酷さをより一層過酷なものにする。今はインターネットの存在を「福音」と感じている者に対しても、その姿をいつ「刃」に変えて襲いかかってくるかも知れない。我々は常に歴史を振り返り、多くのことを学ばねばならない。
(参考文献)
わが国大規模店舗政策の変遷と現状 林雅樹
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071604.pdf
大店法の規制緩和と中小小売商業対策 奈良県立商科大学「研究季報」開学記念号 (1990年 12月)山本久義
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180319222625.pdf?id=ART0001221277
日本トイざラス 沿革
https://www.toysrus.co.jp/corporate/CSfHistory.jsp
楽天"ジャンル大賞"店が倒産――ヒルリードに学ぶECサイトが陥る危険性 『月間ネット販売』小西智恵子
http://www.nethanbai.jp/muryo2008_7b.htm
楽天市場の出店数推移が減少に転じトップページも決算も異変 横田秀珠http://yokotashurin.com/etc/rakuten-shops.html